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車いすバスケットボール選手 石丸 豊さん

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早期受診の大切さとハンディを持って知った世界を知ってほしい

早期受診の大切さとハンディを持って知った世界を知ってほしい

今何か辛い思いをしている人たちや、これから何か壁に直面した時の力にしてもらうために、ご自身の経験を聞かせてほしいという依頼を快諾してくれた石丸さん。取材の約束をした事務所は、エレベーターのないビルの2階。隻脚とお伺いしていたので大丈夫かなと思っていると、下で子どもたちの賑やかな声が。やがて「お待たせしました」と現れた石丸さんを見てびっくり。ぐずって泣いてしまった年少のお子さんを片腕に軽々と抱き、2本重ねた松葉杖をもう片手に持って、朗らかに笑っておられました。ハンディを感じさせないパワフルさとポジティブさ。そんな魅力にあふれる石丸さんと、明るく寄り添う奥様の真弓さんに、これまでの歩みや思いを聞きました。

片足を切断された時のことをお聞きしてもいいですか?

自動車部品メーカーに務めていた21歳の時、右足の付け根に痛みを感じるようになりました。その後だんだん腫れてきたのですが、仕事が忙しくて病院に行く時間がなくてそのままにしていました。一年くらいたった頃に祖母が亡くなり、その葬儀の席で足が痛くて正座も胡座もできない様子を見兼ねた親戚に「早く病院に行け」と強く言われ、やっと地元の病院に行きました。

するとすぐに大きい病院を紹介され、即検査入院することになりました。その頃には10×20cmくらいになっていたコブの組織を採取し、一週間後の検査結果でがんだと告げられました。

ドラマのようにショッキングでもなく、「へぇ」と淡々と受け止めた気がします。その病院でも手術が難しいとのことで、最終的に広大病院に転院して手術をすることになりました。軟部肉腫という珍しいがんで、広大病院でも10年に1人の症例だったそうです。

手術に際しては、「最も再発のリスクが少ないのは足を切断することです」と言われました。部分切除して脚を残すことはできるけれど、神経も切断されるので自分では曲げ伸ばしもできず、もちろん再発のリスクもあるとのことでした。

飾りのような脚を残すよりも安心できた方がいいと考えて切ることを決断しましたが、親は脚を残してやりたいと思って悩んだようです。

幼少期の石丸さん

手術や入院はどのようでしたか?

手術は7時間くらいかけて右の骨盤を含めて下肢を切除し、48針縫いました。その後も、抗がん剤治療やリハビリで半年くらい入院していました。髪の毛も抜けたし、リハビリもキツかったのですが、負けず嫌いな性分を発揮して、あまり悲観せずに入院生活を楽しむようにしました。

同じ病棟に骨肉腫で入院した高校生の女の子がいて、抗がん剤治療がキツくてご飯も食べられない彼女を元気づけたくて自分はご飯をガツガツ食べました。「食べたら元気になるで」と病院食を平らげた上で、さらに売店で買ったカップラーメンを食べて見せて笑わせたりしていました。また最後の抗がん剤治療が終わった後には、意気揚々と煙草を買って喫煙室で一服したら、すぐに吐いてしまって、看護師さんに怒られたりもしました。

大部屋で同室になったのは、同じ年代の男たちばかりで、合宿のように毎日わいわいと騒いでいました。その同室の友人の見舞いに来ていたことで知り合ったのが妻で、本当に人生何があるかわからないし、悪いことばかりでもないと思っています。

手術後の写真

ご家族との1枚

車いすバスケットボールとの出会いは?

術後に義足を作る選択肢もありましたが、接合部が痛い上に義足が重いのでやめて、松葉杖で生活することを選びました。松葉杖で歩くことにもすぐに慣れ、車も左足での操作で普通車に乗れるようにしました。職場には手術前から事情を話して、立ち仕事から座り仕事中心の部署へ変えてもらっていました。

だから特に不自由があったわけではないのですが、ある日車椅子の展示会があることを知って見に行ってみました。その会場に車いすバスケットボールの国体選手がいて、競技のことを聞いたり、車いすに試乗させてもらったりしました。ちょうど少し太ってきて痩せるために何かできないかと考えていた時だったので、すぐに「これだ!」と感じて、その場で競技用の車いすをオーダーしました。通常は、いつも車椅子に乗っている人が競技を体験した上でオーダーするケースが多いようで、あまりに決断が早くて驚かれました(笑)。

プレイ中の石丸さん

車いすバスケットボールの魅力は?

体験した時に、くるくる自由に動き回れるので楽しそうと感じました。スピード感やシュートが決まった時の爽快感も魅力です。一方で自分はずっと個人競技の柔道をしていたので、団体競技は難しいと感じることもありました。また車椅子のタイヤを手で回して操り、ストップやターンの時も手でブレーキをかけるので、手の平、指の皮もずるずるに剥けました。

週に2、3回、広島県立障害者リハビリテーションセンターで練習に参加することから始め、どんどん熱中して練習を重ね、戦略やテクニックも向上させて、3年目にはずっと勝てなかった岡山県のライバルチームを下して中国ブロック代表として全国大会に出場できました。その後は5年連続で全国大会に出場してベスト16まで進出しました。

その後は子どもが生まれたこともあり、一時競技を離れましたが、今年からまた競技に復帰しました。

奥さまから見た豊さんはどんな夫、どんな父親ですか?

第一印象は見るからに柄が悪そうで、病院で知り合っていなかったらつき合っていなかったと思います(笑)。てっきり無謀な運転をして事故をしたと思っていたら、病気が原因と知りました。それなのに明るくて、骨肉腫の女の子を元気づけようと毎日のように病室を訪ねていました。その子のお母さんが廊下で泣いている姿を何回か見かけていたので、怖そうに見えるけれど本当に優しい人なんだと感じました。

けれども退院してからは、予想していたとはいえ、やはり片足であることが視線にさらされました。あからさまに見られると、一緒に歩いている私のことを気にしてイライラしていました。気丈に振る舞ってはいましたが、やはり少しやさぐれていたと思います。

けれどもバスケを始めてからは打ち込むものができてすっきりしたようで、チームの人たちにも礼儀正しく、周囲への人当たりも柔らかくなりました。さらに子どもが生まれてからは、本当に子どもたちのことをかわいがってくれる優しい父親ぶりを発揮してくれています。私の方が仕事が遅くなることが多いのですが、小学校と保育園に迎えに行って、ご飯も私より上手に作ってくれる頼れる夫でもあります。

ご自身の経験を通じてのメッセージ

一番伝えたいことは、どこか痛くなったり、何か体に異変を感じたりしたらすぐに病院に行ってくださいということです。僕の場合は、あと2、3か月遅かったら助からなかったかもしれないと言われました。亡くなった祖母に助けられたのかもしれません。

術後も毎年検査を受け続け、その度に結果が出るまで落ち着きませんでしたが、やっと10年が経過し「完治したと言っていい」と言われて安心しました。それでもまだ、あるはずのない右脚の痛みや痙攣、痺れを感じる幻肢痛があります。大きな病気をすると、一生向き合っていかなければなりません。早期発見はとても大事です。面倒でも健康診断も必ず受けましょう。

また自分自身も“障がい者”と言われる立場になって、初めてわかることがたくさんありました。例えば道のちょっとした段差でも、大変な負担になることがあります。私も昔は、優先駐車スペースと言ってもちょっとくらい停めても大丈夫だろうくらいに見ていましたが、今は健常者の方が車を停められているととても困ることがあります。バリアフリー化が進んできても、まだまだハンディのある人の立場から見れば、配慮が必要なことがたくさんあるということを広く知ってもらえると、誰もがもっと普通に暮らしやすくなると思います。“障がい者”というのは特別な人ではなく、私のように誰がいつその立場になるかはわからないものです。いつか自分や家族のためになるかもしれないという視点を持ってみていただけたら嬉しいです。

石丸 豊(いしまる ゆたか)

1980年生まれ、安芸郡海田町育ち、熊野町在住。
中学、高校時代は柔道に打ち込み、自動車部品メーカーに就職。21歳の時に大腿部の軟部肉腫を発症し、22歳の時に右脚を切断。28歳より車いすバスケットボールチーム「広島RISE」所属。内閣総理大臣杯争奪 日本車椅子バスケットボール選手権大会出場ベスト16

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