サンシャイングループ代表 田川 幸雄さん

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サンシャイングループ 代表 田川 幸雄さん

安全で美味しい食を通して地域産業の発展を支える

2025年に創業60周年を迎えたサンシャイングループ代表の田川幸雄さん。父親である田川幹雄さんがスーパー店内で惣菜店を開店。その後、企業への仕出し弁当店へと業務を拡大し、引き継いだ幸雄さんが広島県内有数の中食企業に発展させてきました。節目を迎え、これまでを振り返りながら100年企業としてバトンをつなぐ思いを聞きました。

インタビュアー

創業のきっかけはどのようだったのでしょうか。

田川さん

父の幹雄は満州育ちで、引き上げ後に呉で母の愛子と出会い結婚。その後、広島に移住して「千鳥」で料理の勉強をして独立しました。私が2歳の時、1965年(昭和40年)に新天地にあったスーパーいずみの地下で「たがわ商店」という惣菜屋を開いたのが当社の始まりです。余談になりますが、その年に生まれた妹は「泉美」と命名されました。

その3年後に長束に移転して、企業向けの仕出し弁当を作る「安佐給食」を開業。だしを取るところから手作りにこだわり、早朝から一品一品丁寧に作る味が評判となっていったようです。ただし二人はとても忙しく、私たちは調理場のまな板に寝かせられて育ったと聞きました。母はそのことをとても不憫に思っていましたが、父はこう言っていたそうです。「今苦労しても、将来苦労させない方が子どものためになる。今我慢をさせて可哀想だと思うなら、しっかり仕事をして将来は楽にさせてやろう」と。

私が小3の時には調理場が全焼する火事などもありましたが、奮起して立ち直り1975年(昭和50年)には今の本社がある口田南に調理工場のある社屋を建てました。

インタビュアー

後を継ぐことはずっと考えていましたか?

田川さん

中学生の頃は夏休みなどの長期休みになると、早朝から起こされて工場でアルバイトをさせられるのが嫌で嫌で…(笑)。思春期でもあり反発もしましたが、ずっと両親の仕事を見てきたので、自分が継ぐのだろうと考えていました。だから高校卒業後は調理師専門学校に進むと決めていたら、父は大学に進学させたかったようで大喧嘩に発展(笑)。

しかし専門学校を卒業する頃には父が後継者として育てるためのレールを敷いていて、東京にある父の知人の弁当屋で1年間修行をしてこいと言われました。当時はホテルやレストランで働くことにも興味を持ち始めていたものの結局は従い、タマランチ㈱の浅岡社長と出会ったことが自分にとっての一つの転機になりました。

修行を終える頃に浅岡社長が、「幹雄社長には言うなよ」と口止めしつつ、「お前は本当に親に言われるままでいいのか。家を継ぐのはもう少し後にして、今しかできないことをしてみたらどうだ」と言ってくれたのです。

その言葉で改めて自分が今やりたいことを見つめ直し、「海外に行ってみたい」と決意。思い切って父に話すと意外にもあっさり賛同してくれ、1年間東京のレストランで資金を貯め、2年間バックパッカーとして放浪の旅をしました。比較的従順に生きてきた私にとって、初めて自ら考えて行動したこの経験は、自分の力で道を切り拓く大きな自信になりました。

修行時代・バックパッカー時代の写真

インタビュアー

それから戻って来て後を継いだのですね

田川さん

会社の後を継いだ頃の3年間が、人生で最も激動の時代となりました。日本に帰国後、本格的に弁当屋の修行をやるために光グループ神崎会長のもとで経営の勉強をしていましたが、半年ほど経ったある日突然「すぐに広島に戻れ」と連絡を受けたのです。父が癌で緊急手術となり、余命半年と聞かされたのは、私が26歳の時でした。

入院中の父に代わり会社を任され、東京で学んだ経営の知識も活かして売上は倍ほどに増やし、2代目の面目を果たしたと思った矢先、食中毒事件を起こしたのです。実は入院中の父が見初めた看護師が妻の寿美子。薦められて二人で食事などを重ねて結婚が決まり、父が生きている間にと進めていた結婚式があと3ヶ月後に迫っていました。これはもう結婚式どころではないと、てんやわんやしている時に、病院を抜け出した父が点滴をぶら下げながら会社に現れ、「みんなの力を貸してくれ」と頭を下げた姿は一生忘れません。

みんなで謝罪に回って何とか騒ぎも収まり、結婚式は無事に挙げられたものの、その後にはさらに一波乱が待っていました。食中毒事件で第二工場の必要性を感じた父が、病院で知り合った人から独断で情報を仕入れ、吉田町に土地を購入していたのです。その資金として莫大な借金をしていたことがわかったのは、父が他界して正式に会社を引き継いだ直後のこと。その額を知ってとても会社を維持できないと思いましたが、夫を亡くしたばかりの母が、まだ信用のない自分たちに代わって銀行などの対応に動き回ってくれたのです。その姿を見て、借金を返さねばという思いを原動力に変え、何とかやってくることができました。

当時を振り返る幸雄氏と、妻で専務取締役の寿美子さん

インタビュアー

会社を引き継いでから今日まで大事にしてきたことは何ですか?

田川さん

やはり「美味しい」と思えるものを毎日提供すること。「食」という字は「人を良くする」と書きます。特に当社の弁当の提供先は工場などが多く、そこで働く人たちはお昼ごはんを楽しみにしてくださっています。だから毎日食べても飽きず、働く力になる食を届けることは、食を通して地域の産業を支える責任を担っています。

そのために管理栄養士に献立作成に携わってもらい、栄養バランスに配慮。また衛生管理を徹底して防腐剤などの添加物を用いず、なるべく鮮度のいい地元の食材を使い、安心して食べてもらえる手作りの味にこだわっています。

また必要な数のお弁当を作り、フレッシュな状態で届けるという業務は、フードロス削減という社会的使命にも応える事業だと考えています。

インタビュアー

今後の展望を聞かせてください。

田川さん

父が30年、私が30年やってきたので、バトンタッチにはちょうどいい時期。幸いにも長男の貴将と次男の敬祐が会社の事業に携わってくれているので、できるだけ私も彼らも若いうちにバトンを渡して、「100年企業」までつないでほしいと願っています。

今、長男の貴将を中心に力を入れている取り組みに冷凍事業があります。地元特産品の狩留家ナスなどを冷凍し、地域や季節を問わず広く普及可能にすることで地域の生産支援や需要拡大に貢献できます。また添加物などを入れなくても美味を保てる冷凍技術を活用すれば、いつでもどこでも納品できる弁当のバリエーションを増やすことができるので、ビジネスホテルなど幅広い業種のニーズとのマッチングも展開していけたら。

個人的に挑戦したいことは、インドネシアのバリ島で唐揚げ屋を開くこと。インドネシアから実習生を迎えていますが、彼らはとても真面目で鶏肉が大好き。きっと喜んでもらえる事業になるんじゃないかなと思っています。

左から次男の敬祐さん(パレイヤ紀元㈱代表取締役)、 長男の貴将さん(アナナス紀元㈱代表取締役)、幸雄氏

インタビュアー

ご自身の健康維持のために心がけていることがありますか?

田川さん

「あんたはよく笑うけぇ病気せんのんじゃ」と言われます。笑うことは免疫力を上げるために有効らしいので、それでこれまであまり大病をしてこなかったのかもしれません。

高校時代は友人に連れられてアメリカンフットボール部に入部していました。そこまで身体は大きくなくても、頭を使う戦略ゲームの要素が強くて楽しかったですね。卒業してからはプレイしていませんが、今でもアメリカのスーパーボウルなどは楽しみに観ています。

サンシャイングループの野球部は、体育会系で活気ある社員に集まってもらいたいという思いで創設。カープOBの佐伯さんとの縁をきっかけにサポートをお願いしましたが、自分では野球もさほどはやりません。今は運動といえば、ゴルフくらい? 会社が100年企業になるのを見届けるためにも、バリで唐揚げやを開くためにも、これからは健康にも気を付けていかなければなりませんね。

田川 幸雄(たがわ ゆきお)

1963年広島生まれ
サンシャイングループ代表取締役社長
崇徳高等学校卒業後、大阪の調理師専門学校へ入学。
東京のタマランチ㈱、下北沢のレストランなどで働いた後、2年間のバックパッカー旅へ。
1992年 アスティランチ社長就任。
1993年 サンシャイングループ社長就任。
以後、規模とエリアを拡大しながら地域の中食業界を牽引し、2025年にグループ創業60周年を迎える。

サンシャイングループ:https://sunshinegroup.co.jp/

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