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結婚しようよ

2020/05/08

暗い情報ばかり駆け巡っています、今回はあえて軽くほっとしてクスッと笑えるようなコラムにしてみました。

いつも、「女にもてたい」とばかり考えていた。

今の話ではない。中学生の頃の話だ。今はもてないほうがいいかもと思ったりもする。

中学1年生の頃、RCCラジオで「ニッポン放送のオールナイトニッポン」を聞いていた。パーソナリティーは、「あのねのね」。 事件はその時起きた。

吉田拓郎の「結婚しようよ」が流れてきた。ぼくはショックを受けた。

「なんだ、この曲は!!」 「かっこ良過ぎる。これしかない。」

すぐに、母親のところに行って。「ママ、ギター買って」と言ったら「何時だと思っているの」とすごく叱られた。

「そうか、今は午前2時半なのだ。」

明くる日にお小遣いをもらって、本通りの「木定楽器」に行った。そして、店員さんから言われるがまま、モーリスとやらのギターを買った。フォークギターかガットギターかも分からない僕は、言われるがままガットギターを買った。僕は、吉田拓郎になりたいのだからフォークギターの方がいいのに。気の小さい僕は、言われるままにガットギターを買ったのだった。

女にもてたいという不純な動機でギターがうまくなるはずがない。約3万円したモーリスのガットギターは、3日くらい触られただけで押し入れに入り込むことになった。僕の吉田拓郎になる夢もはかなく消えた。

ここで「結婚しようよ」の歌詞を最初のところだけ紹介します。続きは「YouTube」でご覧ください。

「結婚しようよ」

作詞、作曲、歌 吉田拓郎

  • 僕の髪が肩まで伸びて
  • 君と同じになったら
  • 約束どおり町の教会で
  • 結婚しようよMMMM
  •  
  • 古いギターをポロンと鳴らそう
  • 白いチャペルが見えたら
  • 仲間を呼んで花をもらおう
  • 結婚しようよMMMM

時は流れて、高校2年生の春。僕は広島県佐伯郡五日市町に住んでいた。これは当時の住所で、今は広島市佐伯区になっている。今から45年位前のことである。昭和40年代の話である。当時、この広島市の隣町の住宅街の小さな商店街にも「五日市有楽座」という映画館があった。日活ロマンポルノというちょっとエッチな映画を中心に上映していた。すごくエッチなものもあったかもしれない。

中学生の時は「女にもてたい」とばかり考えていたが、高校生になると「エッチなこと」ばかり考えていた。今は、あまりエッチなことも考えてはいない。

「成人映画」という魅惑のカテゴリーに入る映画だった。17歳のぼくは、年が足らない。真面目で純情だったのでその映画館に入る勇気もない。いつも映画館の前を行ったり来たりして入れずに家に帰るという可愛いことを毎週のようにしていた。

五日市有楽座に入れずに隣のレコード屋で時間をつぶすことも多くあった。

その日もいつものように五日市有楽座の前を行ったり来たり。7往復して疲れて、レコード屋に入った。そして、「結婚しようよ」のレコードを発見。チケット代がレコード代になってしまった。家に帰り「結婚しようよ」を聞いてみた。やっぱりかっこいい。僕は吉田拓郎になりたかったのだ。押し入れからギターを掘り起こした。それからギターの猛特訓。

半年後には、「C」も「C#」も「D」も「A7」も押さえられるようになっていた。しかし、吉田拓郎になれないということも薄々わかってきていた。 誰かにギター片手に「結婚しようよ」と言いたかったのに。季節は冬になっていた。

半ばやけくそになり、五日市有楽座に行った。映画館の前を行ったり来たりなどというまどろっこしい真似など一切せずにすぐに映画館に入った。なんとも潔い自分にほれぼれした。冬なので寒かったからかもしれない。

後で分かったことだが、僕は高校の生徒手帳を持って行ったらしい。「学割」でも効くかと思ったのか、今ではよくわからない。 上映していた映画に感動した。今もいろいろな映画を見るがこの時見た日活ロマンポルノが生涯で一番の映画だと思っている。偶然に、高2の冬に出会ったのである。

映画の題名は「感じるんです」。主演は、泉じゅんという女優である。のちに料理研究家の結城貢さんと結婚している。泉じゅん、20歳の時の作品となる。僕は、泉じゅんにひとめぼれ。大ファンになってしまった。泉じゅんちゃんはキラキラしていてすごく綺麗だった。泉じゅんちゃんと結婚したいと思った。僕は、すごく幸せな気分で帰宅して、ふわふわとして夢見心地で夜も眠れなかった。 明くる日の事。

学校にいつものように遅刻して行き、ぼーっと午前中を過ごして。昼のお弁当を食べて。いつものように友達と悪ふざけをして。相も変わらずに時間を無駄に過ごしていた。

校内放送が響いた。

「2年4組、竹内君。体育教官室の星野(仮名)のところに来なさい」

なんと、泣く子も黙る生徒指導の星野仙一(仮名)先生に呼ばれたのだった。
一緒にいた友人の焦ったような声。

「竹内、今、星野(仮名)に呼ばれたんと違うか?」

僕は、「えーっ?」と答えたきり、何が起こったのかわからなかった。
頭の中を、日頃やっている悪事の数々が走馬灯のように駆け巡った。
「遅刻100回超えたか」
「水泳部の部室でタバコを吸っていたのがばれたか」
「バイクで学校に来て裏庭に駐車をしていたのがばれたか」

数分後。

恐怖の体育教官室。
教官室前の廊下を行ったり来たりが7回。
そして、恐る恐る入る竹内少年。

「失礼します。星野(仮名)先生お願いします。」

星野(仮名)は半笑いをしながらこう質問してきた。

「竹内、昨日どこ行った?」

「えっ。」

頭の中で

『泉じゅん、かわいかったなあ』
『いやいや、なんで知っているのだ?』
『知っているわけはない』

黙っていると、星野(仮名)は次のように言った。

  • 「映画館に生徒手帳を落としたらしいで」
  • 「映画館の方が届けてくださった」
  • 「今度映画館に行ったとき、ありがとうと言っとけ」
  • 「お前が見た映画は、学割効くんか?

「学割効くんか?」

「学割効くんか?」

「学割効くんか?」

この言葉が竹内少年の頭の中を走馬灯のように駆け巡ったのでした。

コラムニスト

公認心理師・臨床心理士・特別支援教育士スーパーバイザー
  竹内 吉和 

私が大学を卒業してすぐに教師となって教壇に立ってから30年が過ぎ、発達障害や特別支援教育について講演をするようになって、10年以上が経ちました。特別支援教育とは、従来知的な遅れや目が不自由な子供たちなどを対象にしてきた障害児教育に加えて、「知的発達に遅れがないものの、学習や行動、社会生活面で困難を抱えている児童生徒」にもきちんと対応していこうと言う教育です。
これは、従来の障害児教育で論議されていた内容をはるかに超えて、発達障害児はもとより発達障害と診断されなくても認知機能に凹凸のある子供の教育についても対象としており、さらに子供だけでなく我々大人も含めたコミュニケーションや感情のコントロールといった、人間が社会で生きていくうえにおいてもっとも重要であり、基礎的な内容を徹底して論議しているからであるととらえています。

そのためには、児童生徒一人ひとりの教育的ニーズを把握して適切な教育的支援を行う必要があります。ここで、単に教育とせず、教育的支援としているのは、障害のある児童生徒については、教育機関が教育を行う際に、教育機関のみならず、福祉、医療、労働などのさまざまな関係機関との連携・協力が必要だからです。また、私への依頼例からもわかるように、現在、小・中学校さらに高等学校において通常の学級に在籍するLD(学習障害)、ADHD(注意欠陥多動性障害)、知的に遅れのない自閉症(高機能自閉症・アスペルガー障害)などの児童生徒に対する指導及び支援は、喫緊の課題となっており、これら児童生徒への支援の方法や指導原理や全ての幼児・児童生徒への指導は、私達大人を含めて全ての人間が学び、関わり合うための基礎といえるコミュニケーション力を考える上で必須の知識であることを色々な場で訴えています。

今までたくさんの子供たちや親、そして同僚の先生方と貴重な出会いをしてきました。また、指導主事として教育行政の立場からもたくさんの校長先生方と学校経営の話をしたり、一般市民の方からのクレームにも対応したりと、色々な視点で学校や社会を見つめてきたつもりです。ここ数年は毎年200回近くの公演を行い、発達障害や特別支援教育について沢山の方々にお話をしてきました。そして、満を持して2014年3月に広島市立特別支援学校を退任し、2014年4月に竹内発達支援コーポレーションを設立致しました。
今後は、講演、教育相談、発達障害者の就労支援、学校・施設・企業へのコンサルテーション、帰国子女支援、発達障害のセミナーなどを行っていく所存です。

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